title>軍師官兵衛 第十二話 「人質松寿丸」 ネタバレ あらすじ - 軍師官兵衛 非公式解説ブログ dismiss_pictograms | html %>:So-netブログ meta name="description" content="天正五年(1577)松永久秀が三度謀反を起こした。 (松永久秀といえば宇喜多直家と同じく、主君を裏切り毒殺し大名にのし上がった人です。もともとは三好家につかえていましたが、三好家の主だったものたちを次々毒殺し、将軍足利義輝を謀殺した人物です。 自らが大名となった時には信長に従っていたが、三度謀反を起.." /> 茶器 姫路 福島 子供" />
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軍師官兵衛 第十二話 「人質松寿丸」 ネタバレ あらすじ [ドラマ]

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天正五年(1577)松永久秀が三度謀反を起こした。
(松永久秀といえば宇喜多直家と同じく、主君を裏切り毒殺し大名にのし上がった人です。もともとは三好家につかえていましたが、三好家の主だったものたちを次々毒殺し、将軍足利義輝を謀殺した人物です。
自らが大名となった時には信長に従っていたが、三度謀反を起こした、一度目と二度目は城をささげたり、茶器を差し出すなどして許しを得ていた、信長に松永は悪人だがあの才能は殺すには惜しいと言わしめたといわれている)
松永討伐に秀吉も駆り出される、一度命をそむいているため逆らうことは無論できない、また播磨への出兵がのばされる形となった、出兵の前に人質を取るよう秀吉に命じた。

御着にも人質を出すようにとの書状が届いた、もちろん斎であるが政職は渋っている。

同年九月重陽の節句で職隆のもとに光と松寿丸が訪れていた、官兵衛は御着へ赴いているため遅れるらしい、職隆の妻ぬいが光に二人目はまだかと尋ねるが、職隆が強くたしなめた。

そのころ官兵衛は政職から斎のことで相談を持ちかけられていた、どうやら斎が病に臥せっているらしい、これでは人質に出せない、期間を延ばすようにお願いできないかと・・・・・
松寿丸は祖父である職隆より官兵衛の子供のころの話を聞いていた、官兵衛が敵の策略を見抜き助けられたことがあったと、そして松寿丸はどうしたら父や祖父のような立派な男になれるかを聞いた。
見聞を広めることそれが祖父職隆からの答えだった、

安土では信長が息子の信忠を呼び出し、松永久秀討伐を命じた、すでに信忠に家督を譲っていたが、自ら力を示さねばこの乱世ではいつ下剋上をされるかわからない、それにはこの討伐はいい機会だった

北国では勝家が謙信に敗れた、しかし謙信は上洛する気はなく謙信上洛を読んでいた松永久秀は孤立無援となったのである。

二度も人質の延期を求めた小寺家に対し秀吉は早く人質を出すよう催促の手紙をよこしていた、官兵衛も焦燥に駆られていた、そのことを政職に進言するが・・・・
最初は仮病だった斎だが今は本当に高熱にうなされとても人質になりえなかった・・・・・
(この時にはすでに政職は織田を裏切るつもりでいたようだ、史実では信長にも謁見していなかったという人もいます、そしてこの後の秀吉の謁見はついには果たされなかったとも言います、さらにいうともうことあるごとに官兵衛が自分のことをいさめるので官兵衛のことをわずらわしく思っていたようです)

姫路に帰り光に松寿丸を人質にしたいと相談した、もちろん光が承諾するわけもなく人質にして一番の心配事は主の政職である、あの優柔不断さ決断のなさいつ毛利に寝返るかもわからないそうなれば松寿丸は殺されてしまう・・・・・

同年十月十日松永久秀のこもる信貴山城は陥落の時を迎えていた、久秀は信長が一番欲している茶器である「平蜘蛛」を抱え、天守い火薬を置き、信忠軍の前で平蜘蛛をたたき割り火薬に火をつけ城もろとも爆破し自害した・・・・
(補足として松永久秀は京の商人の生まれであるとされている享年63歳?だったかな?)

秀吉から人質の期限が過ぎてしまった、別所、赤松ではすでに疑いの目で見られている、しかし政職は斎を人質に出すつもりはない、官兵衛は打つ手がなく途方に暮れていた。

官兵衛はもう一度、光に相談した、そこへ松寿丸が入ってきて自分が人質になると言い出した。
必死に説得する光に対し松寿丸は落ち着いた様子で見聞を広めたい、子供のころ官兵衛も職隆を助けたことがあるとの話をし自分も父を助けたいと・・・・・

政職は官兵衛と松寿丸に感謝してもしきれない様子で泣きじゃくっていたこれでやっと落ち着くことができる
出立の日祖父職隆、母光にあいさつを交わし、官兵衛が付き添い、護衛に善助、太兵衛、九郎衛門が付き安土へと発った。

安土では信長自ら接見した、一緒に信忠もいる信忠はなぜ小寺から人質が出ないのか?従う気がないのではないかと疑ってかかる、そこを何とか説得し松寿丸を代わりの人質として預けることを承諾させることができた、松寿丸は秀吉の長浜城へ預けられることになった、官兵衛はこれは信長の厚情と受け止めた。
(長浜では石田光成、福島正則などがいるこの時交流を持ったしかし石田光成と福島正則はこの時から仲が悪かったようだ、このことが原因ではないがそれがもとで朝鮮出兵が失敗する、そしてこの時福島正則の性格を把握することで、家康に福島正則を従わせることができたとされる)

長浜に松寿丸を連れて行った、そこで秀吉、おねにしっかりと松寿丸があいさつをした。
おねが官兵衛にしっかりと松寿丸を育てますという言葉を聞き、秀吉、官兵衛がやっと一息ついた。

秀吉の行動は迅速であった、十月十日に松寿丸を長浜に送り届けそこから十月末には軍勢を連れ播磨へとついていたからだ。


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